5月 1日「詩編51:15〜21」 | ||||
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 (詩編51編19節) |
||||
「打ち砕かれ悔いる心」という言葉が19節に出てきます。わたしたちは心が打ち砕かれるような経験を望まないかもしれません。というのも「打ち砕かれる」というと、打ちのめされるようなイメージがあるからです。 | ||||
「主よ 主よ 聴きたまえ くだけし心の 祈言(ねぎごと)を」と繰り返す聖歌があります。聖歌128番「イェスきみ イェスきみ み救いに」という大斎節の聖歌です。砕かれた心の祈りの言葉を聴いてほしいという願いが歌われます。 | ||||
自分が砕かれるというのは、変えられるということです。自分の力に頼って歩んできた生き方が、神さまに救いを求める生き方に変えられる。罪を犯し続ける自分に気づけたからこそ、「わたしを変えてください」と祈ることができるのです。 | ||||
5月 2日「詩編52:1〜6」 | ||||
お前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。 (詩編52編4節) |
||||
「悪よりも強い神の慈しみ」:知恵文学的な詩編です。2節に書かれている出来事は、ノブの祭司アヒメレクの家にサウル王から逃れたダビデを見つけたエドム人ドエグが、そのことをサウルに告げたというものです。 | ||||
サムエル記上21章と22章に書かれたこの出来事によって、ノブの祭司が多く殺されてしまいます。3〜6節には、破壊をもたらす人間を非難する言葉が並びます。ドエグのおこないは人々の命を奪い、悲しませるものでした。 | ||||
「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか」という問いかけは、わたしたちにも投げかけられているのかもしれません。わたしたちは言葉一つで人を貶め、その人の命を奪うものだということを、心に留める必要があるかもしれません。 | ||||
5月 3日「詩編52:7〜11」 | ||||
あなたが計らってくださいますから とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い あなたの御名に。 (詩編52編11節) |
||||
昨日の箇所で、作者は破壊的な人間の姿を描き非難していきました。それを受けてわたしたちはどのように振る舞うべきかが書かれます。今日の箇所の前半には神さまへの畏れが、そして後半では神さまへの信頼と感謝が描かれます。 | ||||
「あなたに呼ばれてわたしは行きます(聖歌534番)」という歌をご存知でしょうか。韓国で作られた聖歌ですが、この3節の歌詞は詩編52編11節にある感謝の言葉と響き合います。 | ||||
「栄光の主イェスに ひたすら仕えて この世の重荷を わたしは担おう 感謝の心で よろこび祝い あなたに 応えて わたしは 行きます」。ここで歌えないのが残念なくらい、とても印象的なメロディーの歌です。いつか感謝のうちに、一緒に歌えたらいいですね。 | ||||
5月 4日「詩編53編」 | ||||
それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。 (詩編53編6節) |
||||
「神を信じない輩」:この詩編は第14編とほぼ同じ内容になっています。ただし6節の描写は、この53編に特有なものになっています。6節には特に、神さまの恐ろしさが描かれます。 | ||||
もし神さまがその恐ろしさを前面に出していたとしたら、わたしたちはどのように生きていくことができるのでしょうか。いつ怒鳴られるのかも分からない状態でドキドキしながら毎日を過ごす。これはとても窮屈に感じます。 | ||||
詩編の作者は書きます。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と。だからこそ、イエス様の十字架による贖いが、わたしたちには必要なのです。 | ||||
5月 5日「詩編54編」 | ||||
神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。 (詩編54編3節) |
||||
「助けられる確信に満ちた祈り」:救いを求める個人の祈りです。表題にある「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」というのは、サムエル記上15章15〜28節に書かれている出来事です。 | ||||
イスラエルの初代王であったサウルはダビデを恐れ、殺害しようとしていました。そのときにダビデはジフに逃れるのですが、ジフの人々はサウルに、「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」と報告します。 | ||||
そのような状況にあって、ダビデは神さまに救いを求めるのです。「あなたの御名と御業によって」、わたしを救い、裁いてくださいと求めるダビデの祈りを、わたしたちも祈っていきましょう。 | ||||
5月 6日「詩編55:1〜9」 | ||||
胸の中で心はもだえ わたしは死の恐怖に襲われています。 (詩編55編5節) |
||||
「友に裏切られた者の神への信頼」:救いを求める祈りです。この詩編の中で、作者は自分の心の内を神さまに訴えます。彼はうろたえ、不安の中にあり、心はもだえ、死の恐怖に襲われ、恐れとわななきが沸き起こり、戦慄が覆います。 | ||||
想像するだけで、悲惨な状況です。わたしたちは自分の力だけではどうしようもない状況に、落とされることがあります。そのときには神さまに助けを求め、祈るしかないのでしょうか。 | ||||
作者はここで、「鳩の翼がわたしにあれば」と願います。鳩はノアの箱舟の物語の中で、地表が乾いたしるしとしてオリーブの葉を持って帰ってきました。ノアたちに平和を告げたのです。わたしたちの心の平安のために、鳩の翼がほしい。そう願います。 | ||||
5月 7日「詩編55:10〜15」 | ||||
わたしを嘲る者が敵であれば それに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば 彼を避けて隠れもしよう。 (詩編55編13節) |
||||
「わたしを嘲る者が敵であれば それに耐えもしよう」と13節にあります。作者はこれまで味方だと思っていた人物に裏切られてしまったようです。「だが、それはお前なのだ」という言葉には、怒りと悲しみが見えます。 | ||||
友達や仲間と思っていた人に裏切られることは、わたしたちも経験することがあるでしょう。何かの思い違いやすれ違いによっていつの間にか批判され、離れていかれてしまうことは、とても悲しいことです。 | ||||
さらに最近はSNSの発達によって、誹謗中傷まで書かれることもあります。ただそういうことがあっても、この作者のように「主よ、彼らを絶やしてください」と祈るのは、行き過ぎのように思いますが。 | ||||
5月 8日「詩編55:16〜19」 | ||||
闘いを挑む多くの者のただ中から わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。 (詩編55編19節) |
||||
今日の19編から、一つの聖歌が思い起こされます。聖歌465番です。「しずけき川の岸辺を 過ぎゆくときにも 憂き悩みの荒海を 渡りゆくおりにも 心やすし 神によりてやすし」というのが1節の歌詞です。 | ||||
この歌はスパフォードという人が作詞しました。彼はこの歌を作詞する2年半前に息子を亡くし、2年前に火災によって財産を失い、作詞する年には船の事故で4人の娘たちを失いました。しかしその中にあっても、神さまが平安を与えてくださると信じていたのです。 | ||||
「群がる仇はたけりて 囲めど攻むれど 試むる者荒びて のぞみを砕くとも 心やすし 神によりてやすし(2節)」。この聖歌のタイトルは、PEACEとなっています。神さまに信頼して、主の平安を求めていきましょう。 | ||||
5月 9日「詩編55:20〜24」 | ||||
あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。 (詩編55編23節) |
||||
神さまに信頼を置いていたとしても、わたしたちには苦難が訪れます。特にそれが、「愛する友の裏切り」からもたらされたときには、わたしたちは深い悲しみに陥れられることになります。 | ||||
ルカによる福音書22章48節には、イエス様が逮捕される場面が描かれています。「イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた」とあるように、12弟子の一人であったイスカリオテのユダがイエス様を裏切ったのです。 | ||||
ただここでイエス様がその悲しみを経験されたから、わたしたちが裏切られたときの悲しみや怒りを理解してくださるとも言えます。イエス様は悲しみの中で、十字架に向かわれました。そしてその血は、たくさんの「裏切り者たち」のためにも流されたのです。 | ||||
5月 10日「詩編56:1〜9」 | ||||
神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。 (詩編56編5節) |
||||
「情け深い神への信頼」:信頼を表明する救いを求める祈りです。表題にある「はるかな沈黙の鳩」という言葉は何を意味するのかよくわかっていません。七十人訳聖書では、「聖所から遠く離れた人々のために」という言葉に変えられています。 | ||||
表題にある「ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき」というのは、サムエル記上21章11〜16にある、ダビデがガト王の家臣に捕えられたときの出来事です。ダビデはそのとき、気が狂ったふりをして難を逃れました。 | ||||
ダビデは陰謀を企む人に、常に待ち伏せされていたといえます。わたしたちの前にも、常に罪が待ち伏せしています。そのときに神さまに拠り頼むことができるのか。祈ることができるのか。そこが大事なのです。 |