本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年4月21日〜30日

4月 21「詩編4819
 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。
(詩編48編9節)
「神の山シオン」:シオンの歌に属しています。シオンという地名は、奈良基督教会ではなじみのあるものです。「シオンホール」という会館があり、「シオンの丘」という広報誌があるからです。
シオンというのは、イスラエルのエルサレム地方の歴史的な地名です。、エルサレム神殿の丘がこう呼ばれ、のちにエルサレム全体、さらにイスラエルの地全体への形容詞ともなりました。シオンの丘という場所も実在します。
シオンの都と丘は大いなる王の首都であり、主の神殿のあるところです。その場所が、全世界の中心に位置しているのです。この詩編ではエルサレムという地上の名ではなく、シオンという聖なる名で神さまを賛美します。
4月 22詩編481015
 あなたの裁きのゆえに シオンの山は喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る。
(詩編48編12節)
「聖地巡礼」に行ったことがある人、うらやましいです。わたしも一度は行ってみたいと思っていますが、実現するのやら。聖地巡礼に行く人は、エルサレム旧市街にある「神殿の丘」にも足をのばすのではないでしょうか。
神殿はわたしたちに、何を見せて来たのでしょうか。わたしたちは神殿を通して、神さまの慈しみや正しさに気づかされてきたのかもしれません。巡礼で見るべきものは建物ではなく、神さまとはどういうお方なのかということなのです。
エルサレムという歴史的な場所は、わたしたちが住むところから遠く離れています。しかし、シオンという聖なる場所は、わたしたちのすぐそばにある「新しいエルサレム」なのかもしれません。そのそれぞれの場所で、わたしたちも神さまを賛美しましょう。
4月 23詩編4915
 諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ
(詩編49編2節)
「世の富のむなしさ」:知恵文学的な詩編です。2〜3節にあるように、作者はできるだけ多くの人たち(諸国の民、この世に住む者は皆、人の子らはすべて、豊かな人も貧しい人も)に語りかけます。
聖歌390番「栄えに満ちたる 神の都は」は、そのTune name(曲の名前)がAUSTRIAであることからも分かるように、オーストリア国家です。アメージンググレースを作詞したジョン・ニュートンが作詞した曲です。
その3節にこうあります。「神に守らるる 都の民は はかなき楽しみ 虚しき富に 誇れる世びとの 嘲り受くも こよなき喜び 露も変わらじ」。この詩の主題は、「世の富」です。そのむなしさを、作者は伝えていくのです。
4月 24詩編49613
 人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。
(詩編49編10節)
昨日の箇所でも書いたように、この詩編は世の富の空しさについて語ります。しかし富んでいる人に対して非難しているのではなく、貧しい信仰者に対して慰めを与えるものです。富を頼みとしている人は、神さまに身代金を払うことができません。
そもそも地上の富は、死の前に無力です。どれだけ財産を持っていたとしても、人はそれを持って死ぬことはできないのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。(ヨブ1:21)」と書かれている通りです。
本来であれば、わたしたちは神さまを拝んで生きていくべき者です。しかし富を拝み、心を富に奪われたときに、わたしたちの人生は本当に空しいものになってしまいます。富ではなく、神さまに仕えることができればと思います。
4月 25詩編491421
 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。
(詩編49編16節)
わたしたちが神さまの元に帰るとき、何ひとつ携えていくことはできません。お金や財産を持っていようがいまいが、家族が多かろうと少なかろうと、死は誰にも同じように起こることです。
14節に、「自分の力に頼る者」という表現があります。神さまに与えられた恵みを自分で得た富だと勘違いし、その富を得ることこそが幸せだと感じる人のことでしょう。富を所有することで、自分の存在価値を高めようと思う人もいます。
ただここで、作者は救いの言葉を伝えます。「神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」という言葉には、わたしたちが何もかも失ったとしても、神さまは魂を必ず守られるという信頼があるのです。
4月 26詩編5016
 「わたしの前に集めよ わたしの慈しみに生きる者を いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
(詩編50編5節)
「心からの礼拝」:即位式のときに用いられたものとも、契約の更新のときの祭りに用いられたものとも言われています。この詩編は、まるで裁判の様子を描くかのように、語られていきます。
ペトロの手紙一4章17節にこのような言葉があります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」。
「わたしと契約を結んだ者」を被告として、裁きが始まるのです。そしてその証人は、天と地です。わたしたちの礼拝が神さまからの裁きの時であるとしたら、とても恐ろしい気がします。
4月 27詩編50715
 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
(詩編50編15節)
昨日の箇所に続いて、告発が続いていきます。旧約聖書にはさまざまな「献げ物」に関する決まりがありました。このようなときには雄牛を、この罪を犯したら雄山羊を、といった具合にです。
ただそれらの「いけにえ」は、そもそも神さまの所有物です。神さまからいただいた(預かった)ものを「お献げします!」というのは少し違うのではないか、と神さまは指摘されるのです。
そうではなく、「告白を神へのいけにえとささげ」なさいと促されるのです。心からの懺悔をし、自分自身を献げること、それが神さまが求めておられることであり、本当の礼拝なのです。
4月 28詩編501623
 告白をいけにえとしてささげる人は わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に わたしは神の救いを示そう。」
(詩編50編23節)
わたしたちは神さまの前に、「善い人」を演じようとします。「敬虔なクリスチャン」でありたいと願います。それはとても大事なことです。しかし神さまは、わたしたちの心の内面をよく知っておられます。
「盗人と見ればこれにくみし 姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ 欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり 同じ母の子を中傷する」。18〜20節に、罪が列挙されています。
「わたしはそこまでひどくありません」と否定するのか、「思いと言葉と行いによって確かに罪を犯していました」と告白するのか。神さまは「告白」をいけにえとしてささげる人を求めておられます。
4月 29詩編5118
 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
(詩編51編6節)
「憐れみの嘆願」:救いを求める個人の祈りです。聖書にはたくさんの人物が登場しますが、完全な人間はイエス様以外、一人も出てきません。イスラエルの偉大な王、ダビデもその一人です。サムエル記下11章には目を覆いたくなるような物語が書かれます。
ダビデは部下のウリヤの妻バト・シェバと不倫関係になります。そして彼女が身ごもったのを知ると、夫ウリヤを戦いの最前線に送り、戦死させてしまいます。つまり姦淫と殺人という二つの罪を犯したのです。
ダビデは預言者ナタンに叱責されます(サム下12章)。そこで自分の罪に気づかされたダビデは、こう言うのです。「わたしは主に罪を犯した」と。3節から5節には、その罪を悔い、祈る言葉が並びます。「罪の告白」が並ぶのです。
4月 30詩編51914
 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
(詩編51編9節)
9節にある「ヒソプ」は旧約聖書に出てくる植物で、清めの儀式の際に用いられてきました。建物の竣工式などの礼拝では、ヒソプで水を振りまきながら詩編51編を唱えるという儀式をすることがあります。
聖歌513番「主よわが身をとらえたまえ」の4節は、このような歌詞になっています。「わがすべては 主のものなり 主はわが喜び また幸なり きよき霊を 満たしたまえ さらばとこしえの 安きを受けん」。
この4節の歌詞は、詩編51編12節と響き合います。わたしたちが罪の告白をすることができるのは、神さまが憐れみ深い方だと信じているからです。その憐れみによってのみ生かされる、そのことを覚えていきましょう。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ