
| 7月21日「ローマの信徒への手紙10:14〜21」 | ||||
| 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 (ローマの信徒への手紙10章17節) |
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| パウロは前の箇所で、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と書きます。そしてここから、「主の名を呼び求める」には何が必要かを論証していきます。まず「主の名を呼び求める」には、「信じる」ことが必要です。 | ||||
| さらに「信じる」ためには「聞くこと」が必要であり、「聞くこと」のためには「宣べ伝えられること」が必要だと説きます。つまりすべての前提には、「宣べ伝えること(宣教)」があるのです。 | ||||
| すべての人がキリストの言葉を聞くことができるように、わたしたちは宣べ伝える者としてそれぞれの地に遣わされています。そこには牧師や信徒の区別はありません。良き知らせを伝える者として、歩んでいきましょう。 | ||||
| 7月22日「ローマの信徒への手紙11:1〜4」 | ||||
| では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 (ローマの信徒への手紙11章1節) |
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| パウロは「神は御自分の民を退けられたのであろうか」と問いかけます。これまでの内容を思い返してみると、救いはユダヤ人から異邦人に移ったと考えることができるため、答えは「イエス」になりそうです。 | ||||
| しかしパウロは「ノー」、つまりユダヤ人が完全に退けられたわけではないと書きます。このことは、とても重要なことです。わたしたちはときに、「白か黒か」をはっきりさせたいと願います。 | ||||
| しかし神さまは、憐れみのお方です。何度も何度もチャンスを与えられます。ユダヤ人にも救いの道を残しておられるのです。わたしたちもまた神さまに背いたとしても、神さまは何度だって招いてくださるのです。 | ||||
| 7月23日「ローマの信徒への手紙11:5〜10」 | ||||
| もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 (ローマの信徒への手紙11章6節) |
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| 「神さまの恵みによって生かされる」、わたしたちの間では、この言葉には違和感がないと思います。しかしユダヤ人はその歴史の中でずっと、そこには行いも伴わなければならないと考えてきました。 | ||||
| 様々な祭儀や律法などが定められ、安息日には違反している人がいないかどうか監視し、人々は「神さまの縛りの中で生きている」状態にあったのかもしれません。しかもそのことによっては、誰一人として神の前に正しい者となれなかったのです。 | ||||
| 本当に恵みの中に生きるとはどういうことか、それは自分を中心とした思いから解き放たれることなのではないでしょうか。ギュッと握りしめていた手を開き、神さまが差し出した手を握り返す。かたくなな心を捨てるのです。 | ||||
| 7月24日「ローマの信徒への手紙11:11〜16」 | ||||
| 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。 (ローマの信徒への手紙11章16節) |
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| ここからパウロは、異邦人の救いについて語っていきます。ただすべての目を異邦人に向けるのではなく、ユダヤ人についても議論を続けます。パウロは一人のユダヤ人として、同胞も救いに導きたいのです。 | ||||
| 旧約聖書の中では、救いはまずユダヤ人に与えられ、そこから全世界へと広がっていくとされていました。しかしユダヤ人がつまずいた結果、救いは異邦人に向けられたとパウロは書きます。 | ||||
| しかしその流れはユダヤ人が妬みを起こし、その過ちによってもたらされたものだというのです。パン種が小麦粉全体を大きく膨張させるように、ユダヤ人の失敗によって世界に救いが訪れたというのです。 | ||||
| 7月25日「ローマの信徒への手紙11:17〜24」 | ||||
| そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。 (ローマの信徒への手紙11章20節) |
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| 新約聖書をずっと読み続けていると、ファリサイ派や律法学者といったユダヤ人を悪と決めつけてしまうことがあります。パウロがいた時代の異邦人の中にも、そのような驕りを持つ人たちがいたようです。 | ||||
| 神さまは、ユダヤ人という枝を折られて、異邦人という枝を接ぎ木されたのだとパウロは書きます。しかし憐れみの神さまは、その折った枝さえもいつでも接ぎ木されるのです。同じように一度接ぎ木された枝も、いつ折られるかわかりません。 | ||||
| わたしたちも、神さまの憐れみにより接ぎ木された枝です。その憐れみの上に、わたしたちは生かされていることを覚えましょう。「あの枝を早く折ってください!」などと願うのは、ちょっと違いますね。 | ||||
| 7月26日「ローマの信徒への手紙11:25〜32」 | ||||
| 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 (ローマの信徒への手紙11章28節) |
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| パウロは神さまの計画によれば、救いが全世界に広がった後にイスラエルが救われることになっていると書きます。これは旧約聖書の中で示された救いの順番と、まったく逆になっています。 | ||||
| まさにイエス様が言われた、「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉が思い起こされます。ただここで心に留めておきたいのは、後になったからといって救いの道が閉ざされるのではないということです。 | ||||
| 幼稚園の運動会のかけっこのとき、ゴールで待つ先生たちは最後の子がやって来るまでいつまでも待ちます。時には観客席から大きな拍手や声援が響きます。神さまも最後の一人が救いの門を通るのを、いつまでも待っていてくださっているのです。 | ||||
| 7月27日「ローマの信徒への手紙11:33〜36」 | ||||
| すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙11章36節) |
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| わたしたちは日曜日になると、礼拝をします。その目的は何でしょうか。親しい友人に会うためでしょうか。ここち良いオルガンの音に耳を傾けたいからでしょうか。家にいると気まずいからでしょうか。 | ||||
| パウロはここまで、議論を重ねてきました。ときには難解で、とても分かりづらい表現もありました。でもその根底にあるのが、今日の箇所の最後にある「神さまへの賛美」なのです。 | ||||
| わたしたちにも経験があると思います。様々な出来事を振り返ったときに、神さまが幾度となく支え、導いてくださったということが。その神さまの憐れみを感じ、いつも神さまを賛美することができればと思います。 | ||||
| 7月28日「ローマの信徒への手紙12:1〜8」 | ||||
| わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 (ローマの信徒への手紙12章5節) |
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| 教会というところは、不思議な場所です。たとえば何かイベントをするとき、チラシを作る人、食事を用意する人、プログラムを考える人、司会をする人など、いつの間にか決まっていくことが多くあります。 | ||||
| また新しく来られた方に寄り添う人、建築や修繕に長けている人、知らないうちにお花をいけてくれる人など、「雇用」しているわけではないのに、それぞれできることをされる方が多くおられます。 | ||||
| これが、自分の賜物を生かし、聖なる生けるいけにえとして献げるということなのだと思います。文字にするととてもハードルが高いことですが、教会はそのようにしてお互いに支え合い、人々に仕え合っているのです。 | ||||
| 7月29日「ローマの信徒への手紙12:9〜21」 | ||||
| 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマの信徒への手紙12章15節) |
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| 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」、とても簡単なようで難しいことです。たとえばとなりの家の人が宝くじに当たったとき、少額だったら一緒に喜べますが、高額だったら妬んでしまうかもしれません。 | ||||
| また普段あまり良く思っていない人が大きな失敗をして涙を流しているとき、「ざまあみろ」という感情は起きないでしょうか。わたしたちは表面上は「同情」していても、心の中では違う思いを持ってしまうことが多くあります。 | ||||
| そのような偽りの愛をもたないように、歩みなさいとパウロは書きます。とは言っても、難しいことです。自分を迫害する人を祝福することは、とても大変です。しかし出来ない所は神さまにお委ねして、歩んでいければと思います。 | ||||
| 7月30日「ローマの信徒への手紙13:1〜7」 | ||||
| すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 (ローマの信徒への手紙13章7節) |
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| 今日の箇所は、とても解釈が難しいです。「支配者」という言葉を聞くと、大統領、総理大臣、政治家などが思い出されます。それらの人がすべて「神によって立てられた」と書かれたら、首をひねってしまいます。 | ||||
| また教会においてもそうです。「上に立つ権力」といえば、主教や牧師、教会委員などが思い起こされます。しかしそれらの人が自分のことを「神によって立てられた」と悪い意味で自負してしまえば、教会は間違った方向に進んでしまうでしょう。 | ||||
| 聖公会の祈祷書の中には、「国会、地方議員のため」、「行政のため」というお祈りが載せられています。権力を持つ人にただ刃向かうのではなく、よき方向に導かれるように祈っていくことが大切なのかもしれません。 | ||||
| 7月31日「ローマの信徒への手紙13:8〜10」 | ||||
| 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 (ローマの信徒への手紙13章10節) |
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| 「互いに愛し合う」、その言葉はキリスト教徒にとってとても重いものです。聖書の中にも何度も出てくる愛という言葉は、日本に聖書が入ってきた当初、「御大切」と翻訳されたこともありました。 | ||||
| 隣にいる人を、とってもとっても大切にしなさい。これが、神さまがわたしたちに与えられた一番の掟です。そのことに、すべての律法が要約されていると、パウロは伝えます。しかしこれには、大切な前提があるのです。 | ||||
| その前提とは、神さまがまずわたしたち一人一人をとってもとっても大切にされたということです。その「愛のシャワー」を浴び続けているから、わたしたちはその雫をとなりの人と分かち合うことができるのです。 |