
| 7月11日「ローマの信徒への手紙8:18〜25」 | ||||
| わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 (ローマの信徒への手紙8章24節) |
||||
| 今日読まれた箇所には、「希望」という言葉が多く出てきます。わたしたちは「希望」というと、何を思い浮かべるでしょうか。卒業するとき、新しい土地に行くとき、結婚するとき、様々な場面でわたしたちは「希望」を胸に抱きます。 | ||||
| しかしパウロのいう「希望」とは、目に見えないものを指します。将来の姿や自分の状況は目に見えるし、想像できるでしょう。しかし聖書のいう「希望」がどのようなものかは、わたしたちには分からないのです。 | ||||
| その「何だかよく分からないもの」に心を向け、待ち望む。雲をつかむような話かもしれませんが、イエス様に出会い、導かれたわたしたちには可能なのだと思います。希望を胸に、日々を過ごしましょう。 | ||||
| 7月12日「ローマの信徒への手紙8:26〜30」 | ||||
| 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 (ローマの信徒への手紙8章28節) |
||||
| 聖公会の礼拝では、成文祈祷を用います。成文祈祷とはあらかじめ文字にされた祈りの言葉を唱えることです。自由祈祷と対照的に使われる言葉です。そのため聖公会の信徒は、自分の言葉で祈るのが苦手な方が多いと言われます。(みんなではありません) | ||||
| 祈るとき、何をどう祈っていいのか分からない、祈りの言葉がまったく口から出ない、そんなことはないでしょうか。そのようなときに、ふと頭の中に祈りの言葉が浮かぶことがあります。それがここでいう、「霊が祈りを助ける」ことなのかもしれません。 | ||||
| この霊を「聖霊」だと捉えると、「助け主」、「弁護者」としての働きがここに書かれているように思います。成文祈祷に慣れていても、たまに自由に祈るのも聖霊の働きを感じられて、いいことだと思います。 | ||||
| 7月13日「ローマの信徒への手紙8:31〜39」 | ||||
| だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 (ローマの信徒への手紙8章35節) |
||||
| 「神が味方なら、誰がわたしたちに敵対できますか」と言い切るパウロの言葉に、ハッとさせられます。わたしたちは日々の生活の中で孤独を感じ、多くの人から責められているように感じることがあります。 | ||||
| そのときにこそ、今日のパウロの言葉を思い出したいものです。神さまが味方なのです。神さまがわたしたちをとことん愛し、そしてイエス様を遣わされた。その事実がまずあるのです。 | ||||
| そう考えたときに、わたしたちは何を恐れるのでしょうか。わたしたちを神さまから引き離すものはないというパウロの言葉は、まさに福音です。たとえわたしたち自身が離れていこうとしても、神さまはそれを拒むのではないでしょうか。 | ||||
| 7月14日「ローマの信徒への手紙9:1〜9」 | ||||
| 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 (ローマの信徒への手紙9章4節) |
||||
| 「選民思想」という言葉があります。旧約聖書によれば、イスラエルの民(ユダヤ人)は神さまから選ばれ、約束の地を与えられたと読むことができます。また彼らは、救いの約束を得ていると考えていました。 | ||||
| しかしパウロは、肉による子ども、つまり血統によって神の子となるのではなく、神さまの約束によって、一方的に選ばれるのだと書きます。自分たちが神の子であるという主張は、すべて自分勝手なものなのかもしれません。 | ||||
| そう考えると、イスラエルとガザで起こっている争いのように、宗教が絡んでいる戦争にはまったく正当性がないといえます。神さまはすべての人を愛し、わたしたちに敵を愛しなさいと命じられるお方なのですから。 | ||||
| 7月15日「ローマの信徒への手紙9:10〜18」 | ||||
| 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 (ローマの信徒への手紙9章16節) |
||||
| 人を救いに導くのは、すべて神さまの自由意志であると言われるとどうでしょう。そうであれば別に努力しなくてもいい。悪いことしたって構わない。そう思いませんか。実際パウロの言葉を聞いて、放縦な生活を送った人たちもいたようです。 | ||||
| しかし救いの根本には、神さまの憐れみがあるということを忘れてはならないと思います。たとえばお母さんが赤ちゃんを慈しむ姿を思い描いてみましょう。ほとんどのお母さんは赤ちゃんが何をしようとも、また何もしなかったとしても、全力で愛します。 | ||||
| その愛を全身に受けて育った赤ちゃんは、少しずつ分かってきます。「ぼくはママに愛されている。だからママを喜ばせてあげたい」。神さまの愛をわたしたちは一方的に受けています。ではどう生きるべきなのでしょうか。 | ||||
| 7月16日「ローマの信徒への手紙9:19〜26」 | ||||
| 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 (ローマの信徒への手紙9章24節) |
||||
| 2019年に、スカーレットという朝ドラが放映されました。もう5年前の放送ですのでうろ覚えですが、主人公は焼いた物の出来が悪かったら、地面に投げつけて割っていたような気がします。(違ったらごめんなさい)。 | ||||
| では「憐れみの器」というものは、どういうものでしょうか。想像してみましょう。神さまは天地創造の際、「それは極めて良かった」と造られたものに満足されました。そこには人間も含まれていました。 | ||||
| ところが罪を犯し、エデンの園を追われ、自分の力では神さまの前に立つことが出来なくなった人間は、神さまからみたら「失敗作」と言えます。しかし神さまはその器を割ることなく、大切にしてくださる。その憐れみの中で生かされている器でありたいものです。 | ||||
| 7月17日「ローマの信徒への手紙9:27〜29」 | ||||
| また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 (ローマの信徒への手紙9章27節) |
||||
| 創世記22章には、イサクをささげよという主の言葉を守ろうとしたアブラハムに対して主の御使いが言った言葉が書かれています。「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」。(創22:17) | ||||
| その言葉に対しパウロは、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」と叫んだ預言者イザヤの言葉を引用します。たとえ「血統」が良くても、救いの中に入れるとは限らないのです。 | ||||
| しかし神さまは、ソドムやゴモラが一瞬にして滅ぼされたように、イスラエルの子らを滅ぼすことはなさいませんでした。当時の教会には異邦人だけではなく、ユダヤ人も含まれていたようです。神さまはすべてを滅ぼすのを思いとどまられていたのです。 | ||||
| 7月18日「ローマの信徒への手紙9:30〜33」 | ||||
| なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 (ローマの信徒への手紙9章32節) |
||||
| マルコ福音書6章1〜6節には、安息日に教えるイエス様に対して「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と驚くナザレの人々の姿が描かれます。 | ||||
| そしてその「思い込み」によって、ナザレの人々はつまずいたとあります。自分が信じている方向とは違う道を示されるとき、人はつまずくのです。そもそもユダヤの人たちは、自分の力だけで義に達することができると信じていました。 | ||||
| それは実は、幻想だったのです。信仰によらないでは、わたしたちは誰一人として神さまの前で義でありえない。しかし今も多くの教会やクリスチャンは、その幻想を追い続けているようにも思えます。 | ||||
| 7月19日「ローマの信徒への手紙10:1〜4」 | ||||
| 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 (ローマの信徒への手紙10章1節) |
||||
| 福音書に出てくるファリサイ派の人たちは、イエス様に対抗する「悪役」として描かれることが多いです。しかし彼らは熱心に神さまを求め、熱心に自分の義を建てようとしていた真面目な人たちでした。 | ||||
| ただその根底が間違っているのだとパウロは指摘します。正しい知識に基づいていないから、彼らがいくら熱心であったとしてもダメだというのです。それでは正しい知識とは何なのでしょうか。 | ||||
| イエス様は罪人や徴税人、娼婦や異邦人といった、人々から排除されていた人と一緒に食事をしました。「すべての人を救いに導きたい」、それが神さまの思いであり、すべての根っこにあるものです。それを見誤ってはいけないのです。 | ||||
| 7月20日「ローマの信徒への手紙10:5〜13」 | ||||
| では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 (ローマの信徒への手紙10章8節) |
||||
| 旧約の時代、救いを得るためには、高いハードルを越えなければならないと考えられていました。日々の生活の中で安息日などの律法を順守するのはもちろんのこと、エルサレム神殿に年に三度行かなければならないなど。 | ||||
| さらに様々な場面で献げるように定められた献げ物。それらをきちんとおこなっていくことは、大変難しいことだったでしょう。しかしイエス様が遣わされたことによって、「み言葉はあなたの近くにある」ようになったのです。 | ||||
| わたしたちがそこに向かわなくても、イエス様の方から来てくださる。そして何度も心の扉をノックし、わたしたちがイエス様を迎え入れるのを待ち続けてくださる。神さまはすべての人に手を差し伸べてくださるのです。 |