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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年7月1日〜10日

7月 1ローマの信徒への手紙61214
 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
(ローマの信徒への手紙6章14節)
キリストを身にまとったわたしたちは、恵みの下にいるという言葉。とてもうれしく感じます。わたしはキリスト教に出会う前、神さまという存在は「監視する」方なのだと思っていました。
「こんなことしてたら神さまに怒られるよ」、「それじゃあ地獄に落ちちゃうよ」、そのような言葉に支配される中では、窮屈な生き方しかできないのかもしれません。しかしわたしたちには罪から解放され、恵みの中で生きることが許されているのです。
だからわたしたちは、自分自身を神さまに献げることができるのです。自分を神さまの道具として用いてもらおうと、導かれるのです。まず神さまの恵みが与えられ、わたしたちは突き動かされるのです。
7月 2ローマの信徒への手紙61518
 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
(ローマの信徒への手紙6章15節)
パウロが語る「信仰義認」に対して、このような批判があったようです。「信仰によって義とされるのであれば、良いおこないは必要ないということか。では何をしても良いということなのか」。
日本の教育の現場は、この数十年間で大きく変わりました。昔は体罰や恫喝は当たり前。先生の言うことを守らないと、とてもひどい目に遭わされていました。そのようにして、人は成長すると信じられていました。
今はその考え方とは違い、一人一人の個性を認め、良いところをほめ、受け入れることを大切にしています。厳しくされるから罪を犯さないのではなく、愛されていることを知ったから義に生きるのです。
7月 3ローマの信徒への手紙61923
 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
(ローマの信徒への手紙6章23節)
6章の終わりに、神さまの賜物として与えられる永遠の命についての記述があります。神さまの奴隷となったわたしたちは、聖なる者となるための実を結び、永遠の命へと行きつくのです。
ただ日本語の「奴隷」という言葉に、あまりいいイメージを持てない方もおられると思います。お葬式の中でもなくなった方を「僕(しもべ)」と呼びますが、奴隷も僕も、わたしたちは良い意味で捉えることは難しいです。
しかし聖書時代の奴隷とは、債務の肩代わりとして労働をする、いわゆる職業奴隷でした。わたしたちはイエス様の十字架によって、罪を赦されました。そのことで神さまはわたしたちを奴隷として用いてくださいます。そしてその報酬は、永遠の命なのです。
7月 4ローマの信徒への手紙716
 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
(ローマの信徒への手紙7章5節)
パウロは、律法とは人が生きている間だけ支配するものだと説きます。こう言うと、「じゃあわたしたちが生きている間は、結局律法の管理下にあるのではないの?」と思ってしまうかもしれません。
しかし、そうではないのです。神さまはイエス様を遣わし、わたしたちのために十字架へと向かわされました。そのことによってわたしたちの罪は贖われ、わたしたちは新しい命に生きることができるようになったのです。
つまり、律法に支配されていた「古い自分」は死んだということなのです。ただ、「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放される」という言葉には、首をかしげてしまいますが。
7月 5ローマの信徒への手紙7712
 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
(ローマの信徒への手紙7章12節)
この箇所を読むと、創世記のアダムとエバの物語を思い出します。神さまに創造されたアダムとエバは、エデンの園で暮らしていました。彼らは二人とも裸でしたが、何も気にしていませんでした。
ところが善悪の知識の木の実を食べた途端、彼らの目は開け、自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしくなってしまったのです。善悪を知ることによって、自分の見にくい部分に気づかされたとも言えるのです。
律法はわたしたちに、自分たちは罪深く、本来死に引き渡されざるを得ない存在であることを認識させます。「善いもの」であるからこそ、わたしたちの陰を明るみに引きずり出してしまうのです。
7月 6「ローマの信徒への手紙71317
 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
(ローマの信徒への手紙7章17節)
朝起きて、「今日こそは悪いことをしないぞ。良くない思いも絶対持たないぞ」と決意しても、夜になって振り返ってみると悲しい思いをすることがしばしばです。心の中までずっと清くいられることなど、なかなか出来ないのです。
性善説と性悪説という言葉があります。人は生まれながら善なのか、それとも悪なのか。自分のことを振り返ると、パウロが言うように心の中に罪が住みついているようにも思えてしまいます。
しかし「どうせ自分は生まれながらにして悪い人間なのだから、何をしたって一緒さ」ということではありません。パウロが繰り返し言っているのは、人間がそのように罪深いにも関わらず、手を差し伸べて下さる方がいるということです。
7月 7ローマの信徒への手紙71825
 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
(ローマの信徒への手紙7章19節)
イエス様の山上の説教の言葉の中に、「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。(マタイによる福音書5章30節)」というものがあります。
パウロの考えの根底には、「二元論」があるようです。今日の箇所であれば、肉は罪、心(霊)は善だと考えているようです。ただこれは、現在の身体の理解とは少し違ってくるかもしれません。
わたしたちにも、心と体が伴わないという経験はあると思います。しかし聖餐式の中で、「思いと、言葉と行いによって、多くの罪を犯している」と懺悔しているわけですから、「肉」もわたしたちの大事な一部なのです。
7月 8ローマの信徒への手紙818
 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
(ローマの信徒への手紙8章4節)
パウロはさらに、霊と肉を二元的に捉えて語ります。ただここで、「肉」をわたしたちの肉体と同じように考えてしまうと、自分を大切にしなくてもいいのだ、傷つけてもいいのだと勘違いしそうですが、それは違います。
神さまはわたしたちを愛し、大切にしてくださいます。それは「霊」だけではなく、「肉」に対してもです。わたしたちの髪の毛一本さえもなくならないようにと、守って下さっているのです。
「肉」という言葉を、たとえば「自分勝手な思い」や「神さまに背く心」と置き換えてみたらどうでしょう。そのことで、パウロの言う霊と肉との関係が少し理解できてくるような気がします。
7月 9ローマの信徒への手紙8911
 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマの信徒への手紙8章11節)
「神の霊があなたがたのうちに宿っている」、パウロのこの言葉は、わたしたちに喜びを与えます。たとえ肉体が汚れていても、神さまの霊がわたしたちの内にあり、わたしたちと共におられるのです。
創世記の2章には、神さまが最初の人アダムを造られた様子が書かれています。神さまは土をこねて、人間の形を造られました。そしてその鼻から息を入れ、生きる者とされたのでした。
旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「息」と「霊」とは同じ言葉です。ですから神さまがわたしたちにも霊を注ぎ込み、その霊によってわたしたちは生かされているとも言えます。とてもうれしいことです。
7月 10ローマの信徒への手紙81217
 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
(ローマの信徒への手紙8章16節)
「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」というパウロの言葉が響きます。さて、キリスト教書店などで売っているキーホルダーの中に、「WWJD」という言葉が彫られた物があります。
この文字は「What Would Jesus Do?」の略で、「もしイエス様だったら、どうするだろう?」という意味を持ちます。何か迷うことが生じたときに、その言葉を思い出してイエス様のみ跡に従おうということです。
自分の思いではなく、神さまのみ心のままに。そのことこそが、肉の思いを捨てて神の霊に導かれるということなのかもしれません。なかなか難しいことです。いつもお祈りの中で、「み心がおこなわれますように」と祈りたいものです。

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