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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年6月11日〜20日

611ローマの信徒への手紙12832
 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
(ローマの信徒への手紙1章32節)
神さまに背いた彼らを、神さまは無価値な思いに渡されます。これはどういう意味なのでしょう。「もう知らない、好きにしたらいい」という感じなのでしょうか。その結果、人々はしてはならないことをするようになります。
パウロはここに、「悪いことリスト」をこれでもかというくらい書き記します。みなさんは人を妬むことや、陰口を叩くことはありませんか。傲慢になって思い上がることはないでしょうか。これは誰もが思い当たるリストだと思います。
つまり人間の罪というのは、わたしたち誰もが身に覚えのあるものなのです。確かに牢獄に入れられるようなことまではしていないかもしれません。しかし神さまの前に、わたしたちはみな罪人なのです。
612ローマの信徒への手紙2111
 神は人を分け隔てなさいません。
(ローマの信徒への手紙2章11節)
パウロは次に、神さまの裁きについて語ります。パウロはユダヤ人について、「人を裁きながら、自分も同じことをしている」と言います。彼はもともとファリサイ派の一員でした。ファリサイ派は厳格に律法を守っていたはずでした。
そして彼らは周りにいる人の罪を指摘し、裁いていました。しかし彼ら自身も、実は罪の中にいたわけです。神さまが人々を悔い改めに導こうとしても、裁きの目で人を見る限り、その人自身も裁きから免れることはできないのです。
そこには、「ユダヤ人だから」とか、「ギリシア人だから」とかいう違いはありません。ユダヤの人たちは自分たちを選ばれた民と考え、救いは自分たちにまず与えられると信じていました。しかしパウロは、神さまはすべての人に等しく恵みを与えてくださると説くのです。
613ローマの信徒への手紙21216
 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
(ローマの信徒への手紙12章14節)
現代のキリスト教会では、十戒を唱えることはあってもそれを本当に実行できているかどうかチェックをしたりしません。またレビ記を読んで、同じようにいけにえを献げることもないでしょう。
では律法とは、一体何なのでしょうか。神さまによる不変の定めというものなのでしょうか。しかしこの手紙が書かれた時代には、人間が律法に枝葉をつけた結果、とてもややこしくなっていたことでしょう。
祈祷書の教会問答には、「あなたはこの戒めを、人の力で守られると思いますか」という問いがあります。その答は、「人の力だけでは守られません。神の助けが必要です」です。そのことをいつも心に留めることが大切なのではないでしょうか。
614ローマの信徒への手紙21724
 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
(ローマの信徒への手紙2章21節)
パウロはここから、「ユダヤ人と律法」について語ります。ユダヤ人の特権意識について、そして他人を裁きながら自分が同じ過ちを繰り返している現状について、厳しく追及するのです。
律法は本来、どうしても正しい方向に進むことの出来ない人たちに対する道しるべの役割を担っていました。ユダヤ人の宗教指導者は律法を通して、神さまに向かう道を人々に示すように導かれていたはずです。
しかし彼らは、神さまから見たら律法を平気で破っているというのです。わたしたちも神さまの福音を知りながら、他人に「〜しなさい」ばかり押し付けてはいないでしょうか。まず自分の目の中にある丸太に気づかないといけないのかもしれません。
615ローマの信徒への手紙22529
 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
(ローマの信徒への手紙2章28節)
パウロはユダヤ人と律法について語る中で、割礼について言及します。ユダヤ人の男性は、生後8日目に割礼を受けます。このときに初めてその子は、「ユダヤ人」となるのです。異邦人もユダヤ教に改宗するときには、割礼を受ける必要があります。
割礼は神さまとの契約関係を外に示すもの、つまり目に見えるしるしと考えられてきました。しかしパウロは、体ではなく心に施された割礼こそが大切なのだと言います。「まことのユダヤ人」とは何かを語るのです。
わたしたちは、割礼を受けていません。それは目に見えるものではなく、目に見えないものを大切にするからです。神さまがイエス様を遣わされたことで、わたしたちが「契約のしるし」を体に刻まなくても神さまとの間にあった溝は埋められたのです。
616「ローマの信徒への手紙314
 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙3章4節)
パウロはここで、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず〜」と、これまでの流れとは少し違うことを語り出します。
パウロはもともと、ユダヤ人の中のユダヤ人として割礼も受けていましたし、またファリサイ派として律法に忠実に生きてきました。そしてその結果としてキリスト者を迫害してきたわけです。
パウロはユダヤ人の立場に戻って、自己弁護をしようとしたわけではありません。信じる人が義とされるという信仰義認に立ったとき、割礼という人のおこないよりも大きな神さまの愛に気づかされます。わたしたちに委ねられた神さまの言葉を信じることが大事なのです。
617ローマの信徒への手紙358
 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
(ローマの信徒への手紙3章6節)
パウロはユダヤ人と論争を繰り返してきました。その結果、いろいろな中傷を受けていたと思われます。その一つが今日の箇所に書かれたことです。ユダヤ人が正しくなかったら、どういうことになるのかと人々に言われたのでしょう。
神さまはユダヤ人を正しい者と認めるために律法と割礼を与えられたのに、律法によって人間の不義ばかりが強調されるとしたら、神さまはその人間を裁かなければならなくなるとユダヤ人は主張します。
なかなかわたしたちには理解しがたい議論ですが、結局このようにして、人間は自分を正当化しようとするのです。わたしたちにも自分を正しい者と認められたいという欲求はあるでしょう。しかし神さまの目にわたしたちは高価で尊い、それだけでいいのです。
618ローマの信徒への手紙3918
 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
(ローマの信徒への手紙3章10節)
「正しい者はいない。一人もいない」。この言葉がパウロから発せられるとき、わたしたちはドキッとするでしょうか。それとも安心するでしょうか。わたしはどちらかというと、安心してしまいます。
わたしたちの社会に目を向けてみると、非常に多くの「正義」が語られ、その「正しさ」の故に人の命を奪ったり、人を傷つけたりする現実があります。戦争の多くは、それぞれの「正しさの主張」から生まれているといっても過言ではありません。
もし誰かを批判したくなったら、この「正しい者はいない。一人もいない」という言葉に立ち返りましょう。わたしたち一人一人は弱く、罪深い存在です。そのことを受け入れることが、まず大事なのです。
619ローマの信徒への手紙31920
 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
(ローマの信徒への手紙3章20節)
たとえば自動車を運転するときには、道路交通法を理解することが求められています。自動車教習所などでそれを学び、学科試験や実技試験を経たのちに免許証が渡され、公道での運転が可能になります。
そこでの道路交通法は、「守らなければならない」規則です。道路交通法を知って運転技術が未熟な自分に気づく、という意味ではありません。わたしたちの身近にある様々な法律や決まりも同じです。それらは、「守らせるために」あるものです。
しかしパウロは、律法とは「罪の自覚を生じさせるもの」なのだと言います。そもそも人間は罪深く、神さまの前に正しい者ではありえないというのが、彼の考えです。自分の心に悪い思いが生じるたびに、パウロの言っていることが心にストンと落ちます。
620ローマの信徒への手紙32126
 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
(ローマの信徒への手紙3章22節)
「ところが今や」、とパウロは語り始めます。これまでパウロはユダヤ人の罪に言及し、律法によっては誰一人として正しい者になることができない人間の姿をあらわにしてきました。
その言葉を聞いたときに、わたしたちの心は沈み、暗闇の中に落とされてしまいます。しかしここで、パウロは語り始めるのです。「ところが今や」と。神さまは、信じる者に神さまの義を与えられるというのです。
神さまはイエス様を遣わし、その贖いの業を通して、律法による義ではなく信仰による義を示されました。「今まで人が犯した罪を見逃して」という神さまの思いが、ここにあるのです。

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