
| 5月11日「使徒言行録24:16〜23」 | ||||
| そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。 (使徒言行録24章23節) |
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| パウロは弁明の中で、「わたしは神に対しても人に対しても、責められることのない良心を保つように、常に努めています」と語ります。それを聞いたフェリクスは、どのように感じたでしょうか。 | ||||
| わたしたちもパウロのように、「常に努めています」と言い切ることができればいいと思います。しかしなかなかそういうわけにもいきません。自分の足りない所や弱さを、感じることも多いからです。 | ||||
| フェリクスは裁判を延期します。「その道をかなり詳しく知っていたから」とありますので、無理に判決を下すともめると思ったのかもしれません。フェリクスはパウロを、比較的自由がある監禁(軟禁状態)の下におきます。 | ||||
| 5月12日「使徒言行録24:24〜27」 | ||||
| しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。 (使徒言行録24章25節) |
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| フェリクスはユダヤ人の妻ドルシラと共に、パウロの話を聞きます。パウロは信仰の話とともに、正義や節制や来るべき裁きについて語ります。フェリクスが恐ろしくなるのもよくわかります。 | ||||
| 洗礼者ヨハネも首をはねられる前、ヘロデに捕らえられていました。そのときヘロデはヨハネの教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました。その場面を少し思い出してしまいます。 | ||||
| ただフェリクスには、下心もあったようです。パウロから良い教えを聞くというよりも、お金をもらうことが目的だったようです。あわせてユダヤ人の機嫌も取ろうとして、パウロの監禁状態を続けていきます。 | ||||
| 5月13日「使徒言行録25:1〜5」 | ||||
| 「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。 (使徒言行録25章5節) |
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| パウロがカイサリアで監禁されて、二年の月日が経ちました。総督フェリクスの後任として、フェストゥスが就任しました。名前が似ているので混乱してしまいますが、ユダヤ人にとってはパウロを告発する好機と考えることもできます。 | ||||
| 早速、祭司長やおもだった人々はエルサレムにやって来たフェストゥスに、パウロをエルサレムに送り返すように願い出ます。しかしフェストゥスはパウロがカイサリアに連れて来られたいきさつを知っていたのでしょう。 | ||||
| 「問題があるなら、自分と一緒にカイサリアに行き、そこで告発しなさい」とフェストゥスは語ります。こそこそと裏工作をするのではなく、正々堂々と主張したらいいのではないかと、極めて正論をぶつけるのです。 | ||||
| 5月14日「使徒言行録25:6〜12」 | ||||
| そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 (使徒言行録25章12節) |
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| フェストゥスがカイサリアに戻るときに、ユダヤの人たちもエルサレムから下って来たようです。彼らはパウロに関して、ありとあらゆる重い罪状を言い立てます。彼らはパウロを憎むがあまり、何とかしてパウロを罪人に仕立てようとするのです。 | ||||
| わたしたちも、ある人のことが嫌いだから、その人の為すことすべてが悪い事であるかのように感じることがあると思います。「罪を憎んで人を憎まず」ということを、考えていきたいと思います。 | ||||
| パウロは裁判の席で、皇帝に上訴することを伝えます。皇帝とはローマ皇帝のことで、当然ローマにいます。パウロの計算だったかどうかはともかく、パウロの前にローマへの道が開かれるのです。 | ||||
| 5月15日「使徒言行録25:13〜22」 | ||||
| そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。 (使徒言行録25章22節) |
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| アグリッパ王は、12章で亡くなったヘロデ王の息子です。またベルニケはアグリッパ王の姉妹でした。彼らはフェストゥス総督に挨拶をするために、カイサリアまでやってきました。 | ||||
| フェストゥスは、パウロの件をアグリッパ王に伝えます。パウロがエルサレムから来たこと、ユダヤ人たちに訴えられていること、しかしパウロに罪は認められなかったこと、それらのことをフェストゥスは語ります。 | ||||
| そして十字架で死んだイエス様が生きているということを、パウロが語っていることも伝えます。アグリッパ王はそこに興味を持ったのでしょう。パウロと直接語りたいと希望します。パウロにとって、大きな宣教のチャンスになるのかもしれません。 | ||||
| 5月16日「使徒言行録25:23〜27」 | ||||
| しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。 (使徒言行録25章25節) |
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| アグリッパ王とベルニケ、そして大隊長や町の有力者たちが謁見の間に来ました。そこにパウロは引き出されます。フェストゥスにはローマの市民権を持つパウロを裁きたくない気持ちと、ユダヤ人たちを怒らせたくないという両方の思いがありました。 | ||||
| パウロが上訴しているのでそのままローマに身柄を移せばいいのですが、罪状がはっきりしていません。かといって無罪だから放免、というわけにもいきません。そこでフェリクスはアグリッパ王に判断させようとするのです。 | ||||
| 自分で判断できないことを人に任せるということは、わたしたちにもあります。しかし自分の保身を第一に考えて他の人の意見を利用するのは、どうなのでしょうか。巻き込まれる人がかわいそうです。 | ||||
| 5月17日「使徒言行録26:1〜3」 | ||||
| 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。 (使徒言行録26章3節) |
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| パウロはアグリッパ王の前で、弁明する機会が与えられました。こういうとき、わたしたちだったらどのようなことを語るでしょうか。「わたしは無罪です!」、「ユダヤ人がひどいんです!」。 | ||||
| わたしたちだったらきっと、自分が解放されることをまず目標にして、一生懸命語ると思います。しかしパウロはそうはしませんでした。パウロは自分のこれまでの生き方について、語り出します。 | ||||
| そしてその中でイエス・キリストに出会い、変えられたことをアグリッパ王に伝えるのです。パウロのこの弁明は、彼による宣教でした。自分の信仰を、一切隠すことなく伝えていくのです。 | ||||
| 5月18日「使徒言行録26:4〜8」 | ||||
| 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。 (使徒言行録26章8節) |
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| パウロはまず、自分がファリサイ派として敬虔な生活を送って来たことを語ります。彼はユダヤ教の中でも最も厳格な派であるファリサイ派の一員として生活をしてきました。律法も忠実に守っていました。 | ||||
| またユダヤ12部族は、散らされた民がまた神さまの元に集められるという希望を抱いていました。その日に神さまの前に立てるように、彼らは普段からいつも清い生活を心がけていたのです。 | ||||
| しかしそれは、表面を白く塗っているだけにすぎないことを、パウロはまた知っていました。自分の弱さを知っているからこそ、「完璧」を求めた生活だけでは足りないことに気づいたのではないでしょうか。 | ||||
| 5月19日「使徒言行録26:9〜11」 | ||||
| また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」 (使徒言行録26章11節) |
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| パウロは何度も、自分は元々キリスト者を迫害していた者だということを告白します。「正しい」と思ってやっていたこととはいえ、本当は人に知られたくないことでしょう。しかしパウロはそれを隠しません。 | ||||
| アメージング・グレイスという歌を作詞したジョン・ニュートンは、イギリスの海軍兵士から奴隷商人になった人物でした。しかし神さまとの出会いの中で回心し、のちに牧師になります。 | ||||
| その歌の中で彼は、「驚くべき恵み、わたしのような者を救って下さった。かつては迷ったが、今は見つけられ、かつては見えなかったが、今は見える」と歌います。パウロも神さまの導きの中で変えられ、生かされるのです。 | ||||
| 5月20日「使徒言行録26:12〜18」 | ||||
| それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。 (使徒言行録26章18節) |
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| パウロは迫害者から、宣教者に生まれ変わりました。パウロが回心したという事実も当然あります。しかしそのように導いたのは、他ならぬ神さまです。神さまは、「罪人のかしら」であるパウロを選ばれたのです。 | ||||
| 前の回心物語にはなかった「突き棒を蹴ると痛い目に遭うものだ」ということわざのようなものが、何を意味しているのかはよく分かりませんが、えてしてこのような体験談は少しずつ話が膨らんでいく傾向にあります。 | ||||
| そしてパウロは、どうして神さまが自分を遣わされたのかについても語ります。それは、「彼らの目を開いて、闇から光に、神に立ち帰らせる」ということです。その「彼ら」の中には、アグリッパ王も含まれているのかもしれません。 |