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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年12月21日〜31日

12月 21「ヨハネによる福音書1838b1916a
 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
(ヨハネによる福音書18章40節)
四つの福音書には、共通してバラバという人物が登場します。ヨハネ福音書では彼のことを、「強盗」と紹介しています。彼は自分の犯した罪のために、刑を受けるはずでした。ところが事態は一変します。
罪を犯したバラバに代わって、罪を犯していないイエス様が十字架につけられることになったのです。この「バラバ」は、わたしたち自身なのかもしれません。わたしたちの罪の身代わりとなり、イエス様は十字架へ向かわれます。そしてわたしたちは自分の罪から解放されるのです。
ポンティオ・ピラトの名は、今も礼拝の中で唱えられます。しかし今日の箇所を読むたびに、「彼のもとで十字架につけられ」と犯人呼ばわりするのはかわいそうな気もします。十字架につけろと叫び続けたのはユダヤ人であり、わたしたち自身なのではないでしょうか。
12月 22「ヨハネによる福音書1916b27
 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
(ヨハネによる福音書19章26節)
イエス様の罪状書きにピラトは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書きました。それもヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いて、誰もが読めるようにしたそうです。ユダヤ人の祭司長に対して、すべて言いなりにはならないぞという意地でしょうか。
十字架のそばには、女性たちに加えて「愛する弟子」がいました。ヨハネ福音書にしか登場しないこの「愛する弟子」を、ヨハネと同一視することもあります。しかしそれとは違った角度で読むこともできます。
母と愛する弟子とは、他人です。しかしイエス様の言葉によって、二人は家族となりました。これが教会の原点なのではないでしょうか。イエス様の執り成しによって、わたしたちが神の家族とされていく。教会はその集まりなのです。
12月 23「ヨハネによる福音書192837
 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネによる福音書19章30節)
ヨハネ福音書には、「渇く」、「成し遂げられた」というイエス様の十字架上での言葉が載せられています。「渇く」という言葉は、4章の「サマリアの女性」の物語を思い起こさせます。十字架上でわたしたち人間と同じように渇きを感じ、苦しみを引き受けられたイエス様の姿がそこにはあります。
そして「成し遂げられた」という言葉には、すべてが終わったという意味があります。しかしその成就によって、新たな始まりがやってくるのです。
イエス様の体からは、血と水が流れ出ました。その意味は何なのでしょう。血は命の象徴、そして水は清めの象徴だという考え方があります。また血は聖餐、水は洗礼という二つの聖奠(サクラメント)を示しているのだと考えることもできるでしょう。
12月 24「ヨハネによる福音書193842
 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
(ヨハネによる福音書19章40節)
イエス様のご降誕を待ち望むクリスマスの前日に、イエス様がお墓に葬られた場面が読まれることは非常に不思議なことです。さて、十字架上で息を引き取ったイエス様の遺体の元に、二人の人がやって来ました。
一人は自分が弟子であることを隠していたアリマタヤのヨセフ。もう一人はヨハネ3章にも登場したニコデモです。ニコデモは7章でイエス様を弁護するものの、イエス様にずっと従っていたわけではありませんでした。
二人の信仰は、他の弟子たちから見たら中途半端に見えたことでしょう。しかし二人は必要なときに、とても大事な働きをしたのです。わたしたちも他人の信仰を否定するのはやめましょう。神さまは必要なときに必要な人を、必要な形で用いられるのですから。
12月 25「ヨハネによる福音書20110
 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
(ヨハネによる福音書20章9節)
クリスマス、おめでとうございます。そしてこの「日ごとの聖書」では、イエス様のご復活の場面をご一緒に読むことができること、本当にうれしく思います。こういうのを日本的に言えば、「盆と正月が一緒に来たよう」となるのでしょうか。
マグダラのマリアは朝早くお墓に行きました。そこで墓の入口の石が取り除けられているのを見て、イエス様の遺体が取り去られたと考えます。そして彼女は、ペトロのところに、そしてイエス様が愛しておられた弟子のところに走り、そのことを告げるのです。
ペトロとその弟子は、互いに競争しているかのようです。最初はペトロが早かったものの、途中で抜かれました。しかし墓に入ったのはペトロが先でした。ところが先に「信じた」のはもう一人の弟子でした。二人の信仰が、試されているかのようです。
12月 26「ヨハネによる福音書201118
 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
(ヨハネによる福音書20章16節)
マグダラのマリアは墓に戻ってきました。そしてそこで泣き続けていました。白い衣を着た二人の天使を見てもそれに気づかず、イエス様が立っていても園の番人だと思い込んで、イエス様だとは分かりませんでした。
彼女が探していたのは、イエス様の遺体でした。彼女も他の弟子たちと同様に、イエス様が復活するという話を聞いていたことでしょう。しかし彼女が望んでいたのは、「すべてが元の状態に戻る」ことでした。
イエス様の復活とは、そうではありません。肉体の再生ではなく、復活のイエス様に出会った人が新たにされることなのです。マグダラのマリアはまた、弟子たちの元に向かいます。そして復活のイエス様との出会いを報告していきます。
12月 27「ヨハネによる福音書201923
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
(ヨハネによる福音書20章22節)
マグダラのマリアからイエス様に会ったという報告を受けた弟子たちは、その日の夕方、家の戸に鍵をかけて集まっていました。イエス様の遺体を盗んだと疑われるのが嫌だからでしょうか。それともユダヤ人たちが次は自分たちをターゲットにすると思ったのでしょうか。
その中でイエス様は、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。「平安あれ!」、つまりざわめく心が神さまによって静まり、穏やかになるようにと願っておられるのです。
そしてイエス様は息を吹きかけ、聖霊を与えます。「息」と「霊」とは原語では同じ言葉です。神さまは最初の人アダムの鼻に命の息を吹き込まれました(創世記2章)。復活のイエス様は、ご自分と出会った人々に新しい命を吹き込んでくださるのです。
12月 28「ヨハネによる福音書202431
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(ヨハネによる福音書20章27節)
弟子たちの真ん中にイエス様が来られたとき、トマスはその場にいませんでした。彼には後に「疑い深いトマス」というあだ名がつけられますが、彼は他の弟子たちの言うことを信用しませんでした。自分の目で確かめないと、信じないと言ったのです。
トマスは「ディディモのトマス」とも呼ばれます。「ディディモ」とは「双子」のことです。双子のもう一人は、誰なのか分かりません。よく言われるのは、そのもう一人の双子はわたしたち自身だということです。
わたしたちには、いつも復活のイエス様が手を差し伸べてくださっています。しかし目に見えないから、なかなか信じることができない。でもトマスの元に八日後に来られたように、あらゆる場面でわたしたちは確かにイエス様に出会っているのです。
12月 29「ヨハネによる福音書21114
 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
(ヨハネによる福音書21章6節)
21章に入り、舞台はティベリアス湖畔に移ります。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖の別名です。つまり彼らはエルサレムを離れ、地元であるガリラヤに戻ったということです。聖霊を与えられ、喜びであふれていたはずの彼らに何が起こったのでしょうか。
彼らはもしかしたら、エルサレムで挫折を味わい、ガリラヤに戻らざるを得なかったのかもしれません。あるいはユダヤ人たちに捕らえられるのを恐れ、逃げたのかもしれません。しかしその場にも、復活のイエス様が来てくださいました。
漁師である彼らに網を降ろすように命じ、舟を魚で一杯にする様子は、ルカ5章1〜11節を思い起こさせます。つまずいてしまった彼らに、イエス様はまた前を向いて歩む力を与えて下さったのです。わたしたちの元にも、イエス様は何度でも来てくださいます。
12月 30「ヨハネによる福音書211519
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
(ヨハネによる福音書21章17節)
食事の後、イエス様はペトロに語り掛けます。「わたしを愛しているか」と。ペトロはそれに対し、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。
ところがイエス様は、同じ質問を三回も繰り返します。「三回」と聞いて、ペトロがイエス様を「知らない」と否認したことを思い出す人も多いでしょう。ペトロにもその後ろめたさがあったでしょう。そして「あなたは何もかもご存じです」と正直に答えるのです。
このイエス様の言葉は、叱責ではなく愛だと思います。何度裏切られても、見捨てられても、わたしはあなたを受け入れてあげようと声を掛け続けるイエス様。その声は、わたしたちの元にも届けられるのです。
12月 31「ヨハネによる福音書212025
 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
(ヨハネによる福音書21章22節)
イエス様との会話の後、ペトロはイエス様の愛しておられた弟子が付いて来るのを見ます。ペトロは彼のことが気になり、イエス様に質問をします。何しろ「イエス様が愛しておられた弟子」ですから、その気持ちもよくわかります。
わたしたちも教会や信仰生活の中で、自分と人とを比較し、他人のことが気になってしまうこともあるでしょう。しかしイエス様はきっぱりと言われるのです。「他の人のことは、あなたには関係ない」と。
あなたにはあなたの賜物があります。またあなたに与えられた時があります。神さまの導きに従い、イエス様を見上げて歩んでいきましょう。この一年分かち合ってきた福音書のメッセージが、わたしたちの心の中に生き続けますよう、お祈りしております。

バナースペース

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